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芸術と手術のhorahukiのレビュー・感想・評価

芸術と手術(1924年製作の映画)
3.9
接ぎ木による侵略

『カリガリ博士』のロベルトヴィーネ監督によるサイレント期ホラーの傑作!天才ピアニストのオルラックが列車衝突事故で両手を失う→手術で移植されたのは殺人鬼の手だった。そのせいでピアノが弾けないどころか、手から逆流するかのように殺人鬼の思考に侵されていく…。

調べたら腕の移植って稀ながら行われているらしい。映画とは違って、体が腕に影響を及ぼして腕を変化させていくこともあるみたいで、そういう記事が出て来た。そう考えると何ともコメントしづらい主題…😅あくまでも映画の話です!

原作では奥様ロジーヌ視点で物語が進み、幽霊的存在であるSpectrophélèsに悩まされながらも稼げなくなった夫を影ながら支えることに苦心する奥様の強さを描いており、“移植された殺人鬼の手”はクライマックス付近に明かされるもの。外在化する心的投影を絡めたミステリーといった趣きの原作に対して、オルラック視点によるアイデンティティの揺らぎを拡張させ、そこに恐怖を見出した本作はホラーへと明確に舵を切っているように見える。原作も高純度なホラーではあるのだけど😂

そしてそれは凋落への不安と自身の内面に潜む悪意という二面の恐怖であって、オチは安堵を齎すものでは決してなく、列車事故に見立てた戦後不安に起因したオルラックのあり得べき可能性を担わせているのでしょう。個では絶対に制御できないクリティカルな外的事象が心に作用し、そこから抑えようもなく湧き上がってくる悪意という心的な二段構え。だからこそオルラックが怯えているのは自己の内面そのものであって、心的投影の外在化は映画でもしっかりと機能している。

その主題を象徴するアイテムとして、自身の意思とは関わりなく外部から植え付けられた“手”を接ぎ木の発想の元に利用しているに過ぎない。それは思想であって、エーベルスが『アルラウネ』によって描いた主題と非常に近い。それ故に原作からこのような改変を行ったのではないかと思った。本作は被投と企投の分析であって、原作オルラックは企投という点で非常に真っ当であったのに対し、映画オルラックは非常に頽落的に映る。それは描かれた場所と時代故の差異であろうし、ホラーに向けた意思表明なのでしょう。

そして触覚として他人の手を伝ってくるものは本当に自分の知覚なのか…といった感覚器官の相違ゆえの外界-自己との断絶的な発想も感じた。異様なまでに触れることを拒むのは殺人鬼の手であるからだけでなく、他者の感覚器官によって外界そして愛する人と接触することの違和感も多いにある気がする。相手方視点に立った場合にそこにいるのは自己か他者か。そういった自己の混濁を起こしつつも外部から認識される指紋による同一性に絶望感と恐怖が極大になっている気がする。

列車衝突の大惨事を背景に、強烈な闇の中を朧げな光により闇を切り裂いて進む主観投影の美しさ。現地に重くのしかかる闇と希望的に投入される救助隊?を含めた光の到来とそれを阻む濃い煙…プロローグ時点でカッコ良すぎるんだけど、ペンを置く等のちょっとの仕草に事実と感情が乗り、とこどころで見られる自己解体のような演技や、自己領域を意識した手の位置取り、妻・ピアノとの位置関係と動線、ロングショット→超ロングショットへの変遷等最後までずっとカッコいい。個人的に好きなのはガス灯の灯り。明度を変えずに主従を移動させるのすんごいグッと来た。
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