真田ピロシキ

放浪息子の真田ピロシキのレビュー・感想・評価

放浪息子(2011年製作のアニメ)
5.0
大人の百合と紹介されてた志村貴子の『おとなになっても』が面白いので過去作も知りたくなり、ちょうどアニメ化されてた本作を見てみた。

私は90年代の陰鬱な九州男児だったので、本作で描かれる繊細な中学生男女は自分の体験とはトランスジェンダー以前にかけ離れすぎている。お姉ちゃんが中学生読者モデルでその友達のモデルと付き合い始めるニトリ君はメフィラス星人のように遠い存在。小学生の頃から同じくトランスジェンダーらしき高槻さんと付き合ったことがあり、女装したニトリ君を好きな千葉さんからも想いを寄せられているモテぶり。凄い美少年なのは間違いない。それだけ浮世離れしているのにも関わらず、彼ら彼女らの抱える迷いや願いには嘘を感じず物語に引き込まされる。

そう思えるのは恐らく原作が2003年開始と古く、アニメも2011年でまだLGBTQが今ほど題材として取り上げられてなく、悪い言い方をすれば今のようにLGBTQをトレンドとして扱っていないから表現に対してお仕着せがなくリアルを感じられる。HAIIRO DE ROSSIという高らかにプロテストを歌うラッパーが言っていた「多様性や寛容に酔った奴はタチが悪い」というリリックを、昨今のマイノリティ作品には時々感じてしまうのよね。機会さえあれば物語からも少数派を排斥したがる輩がたくさんいるからあまり言わないけど違和感はある。

キャラクターは中学生らしく未熟で良識のある大人のように上手く"配慮"はできない。入学初日に学ランで登校したボーイッシュな更科さんは裏表のない明朗快活な人であるが、それは無神経の裏返しで無自覚に人を傷つける危険がある。女性としての成長を嫌がっている成長期の高槻さんにアウトなセクハラをしたり。しかし女装し登校して引きこもったニトリ君に他の友達が理解を示そうとしてる中で、彼女は特別視していない。良いも悪いもなく友達の1人という認識。マジョリティに求められるのは奇異の目で見るのでもなければ凄い人と思うのでもなく同情するのでもないただそこにいる人として空気のように当たり前とすること。それが多様性ではないか?最後に千葉さんがニトリ君を普通の人だったと言い、それに対して高槻さんが特別と言う。人は誰しもが普通であって特別。それで正しい。

ニトリ君を小学校の頃に女っぽいからとイジメてた土居を特別良い奴ではないし友達でもないが更科さん同様にフラットにニトリ君を見る人間として描いているのも紋切り型ではない人物像が見て取れる。それと歳上彼女のアンナちゃんが女みたいな可愛い外見なのに近付き難い自分に告白してきたニトリ君に男らしさを感じたのも面白い点で、人はそんな簡単に型に嵌められるものではなくて本人すら知らない多面性を秘めていることを描かれてて人物描写が非常に深い。だからみんな好ましい点もそうでない点も混在してて実在する人間のように見える。

アニメーションも素晴らしく水彩画調の淡い色使いがこの繊細な物語世界を的確に表現していて上品な語り口に大きく貢献している。少年少女の青春ものと言えば光を過剰なまでにキラキラ反射させてエモい!をやろうとするのが多いが、ああした時にうるさいのとは真逆。言うまでもないが中高生を性的に搾取しようとするキモオタ演出は影も形もないので、題材的に子供にも薦められる。ブラが透けても卑猥さがないからね。主役周りの声優は知らない人が多かったが、高槻さんや更科さんなどボーイッシュ女子はアニメアニメした感じが少なくこれも物語に引き込ませてくれた一因。志村貴子の描く子供はあまり見分けをつけられないので、最後まで顔と名前が一致しにくかったのは少し残念。どうやらこのアニメは原作の中学生編だけを映像化したものらしいので、早速原作を買った。本作でも断片的に語られていた小学生編から。楽しみだ。